草模様

メッセージ

 

新しくメッセージ (O)2012 が加わりました

      

 

メッセージ(A)  クラシック音楽界に見られる民族主義的な流れを受けて(1998)

       メッセージ(B)  日本的な素材を基にオルガン作品をつくる意味の重要性について(1999)

メッセージ(C) ポリフォニー音楽は21世紀の日本の課題(1999)

       メッセージ(D) バッハ没後250年を記念してバロック音楽について(2000)

メッセージ(E) 新世紀が始まり、新しい音楽について考えて見ましょう(2001)

メッセージ(F)  変拍子の面白さについて(2001)

メッセージ(G) 奄美島唄との10年間の歩み(2001)

メッセージ(H) オルガンと電子楽器(2002)

メッセージ(I)最近出会った面白い本(日本文化モダン・ラプソディ(2003)

メッセージ(J)心を捉える音楽、心を開放する音楽、心が住める音楽(2003)

メッセージ(K)芸術家がつくる音楽、職人がつくる音楽、(2005)

      メッセージ(L)日本の美はオルガンによって普遍化される(2005)

               メッセージ(M)バッハの音楽は森の調べ?(2006)

    メッセージ(N)オルガンは何故大きいのか(2007)

                  メッセージ(O)デジタルパイプオルガン コンサートを開始します(2012)

    

 

 

 

 

 

                                メッセージ(O)

       デジタルパイプオルガン コンサートを開始します(2012)

1974年より毎年自主企画のパイプオルガンコンサートを行ってきましたが、自主企画のコンサートとしては2011年第50回で打ち止めとしました

一番大きい理由は、2011年に東京純心女子大学を定年退職(特任教授として継続)し、経済的な支えが無くなったという事ですが、もちろん機会があれば、積極的にパイプオルガンの演奏を継続していくつもりです

一方でデジタルパイプオルガンの普及がオルガン音楽の将来のために必要だという思いがあり、2012年よりデジタルパイプオルガンによる自主企画コンサートを開始します

その理由をあげてみましょう

@自然災害が多い日本では、もしもの時の為に、デジタルパイプオルガンは絶対必要

私は現在でも、吉祥寺カトリック教会のオルガ二ストの一員として務めていますが、1970年頃は、その教会にあった10個ストップの小型パイプオルガンが、自主企画の唯一の発表の場であり、唯一の練習楽器でもありました

しかし1973年の教会の火事で、発表の場、練習楽器を失ってしまいました

やむなく、クロダオルガンにクロダトーン(電子楽器)を注文しましたが、完成には一年かかりました

その間、東京カテドラル、大森めぐみ教会(オルガ二スト馬渕久夫氏の御厚意を通して)、柿の木坂教会(クロダオルガン社長黒田一郎氏の紹介)のクロダトーン、 お弟子さんの高橋泰子さんのクロダトーンをお借りして、毎日別の場所を渡り歩く1年でした

一週間のうち5日間はクロダトーンを弾いていたのです

もしあの頃、クロダトーンという電子楽器が無ければ、今日の私はありません

その頃から私には、地震と火災に見舞われがちな日本では、電子オルガンの発達と普及は絶対に必要だと感じています

2011年の東北大震災の場合も多くのオルガンが被災し、修復に多くの時間がかかっています

東北では中、小型のオルガンが多く、NHKホール、サントリーホール、東京芸術劇場のような、超大型のパイプオルガンはありません

オルガンは大きくなればなるほど、地震の被害を受けやすいのです

中、小型のオルガンですら被災するのですから、もし東京で東北大震災と同クラス、あるいはそれ以上の大地震がおきたら、いったいどれだけのオルガンが破壊、又は損傷を被るのかを考えるとぞっとします

1973年吉祥寺教会の火災を経験している私は、日本におけるパイプオルガンの自然災害にはつねに怯えています

多くのパイプオルガンが被災した後、しばらくの間、オルガ二ストの日々の営みを守る事が出来るのは電子オルガンかデジタルパイプオルガンです

Aパイプオルガンが無いところでも、オルガン曲を演奏できる

私は2011年の八月に宮城県と、岩手県を訪問し、デジタルパイプオルガンを持ち込んで、慰問コンサートを行いました

それが実現出来たのは、かつて奄美島唄とのセッションの為に、デジタルパイプオルガンを奄美に持ち込んだ際、名瀬市に赴任していた江連実牧師と知り合いになっていたからです

彼は現在、青葉城の近くの北一番町教会に赴任しているので、彼の紹介で被災地で活動している関係者と繋がり、彼の教会を基点にさせていただいて、コンサート活動が出来たのでした

現地でのコンサートのプログラムは、バッハのトッカータとフーガや「主よ人の望みの喜びよ」等の名曲と、私のオリジナル「故郷」の主題による変奏曲、「アメイジング・グレイス」の主題による変奏曲とフーガ等を中心に、皆で歌っていただくステージも加えて構成しました

現地の主催者の方から、「この施設におられる方々は、体を動かしたり、感情を発散させる機会が少ないので、よろしくお願いします」と言われていましたので、皆で歌おうのステージを多く設定しました

そこでは、故郷、赤とんぼ、紅葉、荒城の月(青葉城に土井晩翠の碑がある)等を歌いましたが、皆すごく大きな声で歌って下さって、大変喜んでいただきました

会衆の歌をしっかり支えるというのは、本来大型のパイプオルガンに課せられた最大の役目であり、醍醐味です

移動可能なデジタルパイプオルガンで、その醍醐味を発揮出来たことは、大変大きな意味があります

普段パイプオルガンを演奏出来ない所でも、演奏出来るということは、オルガン音楽を伝える意味でも素晴らしいことだと思います

また聴衆に近い場所で演奏できるのも、デジタルパイプオルガンの良い点ですし、他の楽器、声楽とのアンサンブルもずっとやりやすくなります

更に、デジタル技術が発達した現在、デジタルパイプオルガンは、もはや貧弱な楽器ではありません

名曲や大曲を演奏するのに充分な能力を発揮できる楽器に成長しています

日本の多くの建物は、音響的にパイプオルガンには向いていませんが、デジタルパイプオルガンは音響を調整する事で、そうした建物でも、良く響くパイプオルガン特有の演奏効果を発揮できる状況を作りだす事が出来ます

デジテルパイプオルガンでのコンサートは、様々な地域に、オルガン音楽を伝え、更にオルガン音楽の新しい分野を切り開けるものだと私自身期待しています

パイプオルガンとその音楽の発展の為にも、デジタルパイプオルガンの存在と進歩は必要であり、両者の共存が大切だと思います

 

 

 

           メッセージ(N)

      オルガンは何故大きいのか

オルガンは、二段鍵盤(独立していること)以上とペダルを持っている楽器です。

二つ以上の鍵盤と結ばれたパイプ群は中央に置かれ、左右にペダルと結ばれたパイプ群が半音づつ交代に並べられているのが一般的です。

二段鍵盤の場合、バロックでは、主鍵盤とポジティーフ鍵盤からなり、主鍵盤のパイプ群は開場全体に音が豊かに響き渡る位置に置かれ、ポジティーフ鍵盤のパイプ群は会衆に近い、低い位置に置かれます。

つまり朗々と力強く響く主鍵盤に対し、明るく軽快な動きを際立たせるポジティーフ、その二つをしっかりと支えるペダル、というのが基本的な性格です。

三段鍵盤の場合、第3番目の鍵盤はスウェールです。

この鍵盤は主鍵盤の上に置かれ、主鍵盤より残響を多く含んだ、柔和な優しい性格を持っています。

このような形のオルガンが多く造られるようになったのは北ドイツで、17世紀後半からです。

ヨーロッパ全体を巻き込んだ宗教戦争(30年戦争:1618〜1648)によってドイツの町々は大変荒廃しました。

ドイツは北方プロテスタント、南方カトリックという言葉に象徴されるように、プロテスタントの多い北では、会衆全員が大声で歌うコラールを、オルガンがしっかり支えなければなりません。

他方カトリックが多い南では、コラールよりも聖歌隊や独唱が中心で、オルガンはあまり大きくなくても良かったのです。

コラール中心の場合、オルガンは大きくなければなりませんが、この大きなオルガンの建造は、ドイツが最も荒廃し、経済的にも厳しい中で行われました。

日本では経済成長に伴って繁栄の象徴のように、オルガンが普及しましたが、バブルの崩壊と共にそのスピードは鈍り、将来が明るいとは言えません。

経済が充実してくるに従って大きなオルガンが入り、経済が停滞してくると下火になる、という状況は、ルネッサンスのスペイン、19世紀のフランスでも同じで、別に珍しいことではありません。

しかしドイツは別でした。

ドイツが最も荒廃し、経済的にも厳しい中で、どうして大オルガンの建造が可能だったのでしょう。

バッハがハンブルクの教会のオルガ二ストに就職しようとした時、多額の寄付をするように求められ、バッハはそれを払えなかったので、就職出来なかったという話があります。

おそらくオルガン建造の時にも、多くの寄付が教会員達に求められたと思います。

彼らは、皆で心を合わせてコラールを力強くうたい、一致団結して、ドイツの荒廃した状況から立ち上がろうと、寄付ないしはボランティアを通して、オルガン建造に賭けたのです。

彼らが出来たばかりの大オルガンの伴奏で、大声で思いっきりコラールを歌った時の感動は、きっと凄いものだったでしょう。

我々はバッハの前奏曲(トッカータ、幻想曲)とフーガに注意が向きがちですが、ドイツ人にとって最も中心なのはコラールです。

「目覚めよと呼ぶ声が聞こえる」や「主よ人の望みの喜びよ」など、コラールは美しい曲も多数ありますが、一般の日本人にとっては、どうしてもドイツ語を意識しなければならなくなり、コラールが日常的になるには、越えがたい壁があることも事実です。

ですが、会衆が思いっきり歌うのをオルガンで伴奏する、ということを日常的にする方法もあります。

文部省唱歌の「故郷」「朧月夜」「夏は来ぬ」や童謡の「あかとんぼ」「夏の思い出」「夕焼小焼」などをオルガンのコンサートで会衆に歌ってもらうのです。

この際、オリジナルの伴奏ではバスがあまり動かないので、私の場合オルガンに相応しいようにバッハに習って、4分音符又は8分音符で、バスの動きを積極的にしたアレンジを行っています。

そうすると、会衆にはバスの動きで曲のテンポが伝わり、そのうねるような刺激で会衆の声も乗ってくるのです。

北ドイツのオルガンのペダル鍵盤が充実しているのも、それと関係があります。

八王子にある、夕やけ小やけふれあいの里でのコンサートは今年で8回めを数えましたが、会衆全体の歌を伴奏する醍醐味は、大オルガンの魅力の原点だと思っています。

12月22日に福島ホールでソプラノとのジョイントでクリスマスコンサートがありますが、ここでも「もろびとこぞりて」と「きよしこのよる」を会衆全員で歌う予定です。

 

 

 

          メッセージ(M)

                  バッハの音楽は森の調べ?

歌とオルガンあるいはマンドリンとオルガンなど、いわゆるジョイントコンサートを行った時、いつも感じることがあります。

それはアンサンブル曲とオルガンソロの曲があまりにも性格が違う事です。

例えば、歌とオルガンのアンサンブルの曲でバッハのカンタータのアリアを演奏したとします。

その音楽は、聴衆にたいして解かりやすく、暖かく、日常の感覚で語りかけて行きます。

しかし次にバッハの前奏曲とフーガ等を演奏し始めると、雰囲気は一変して、人間を超えた巨大な世界が、あたかも聴衆を無視しているかのように展開していきます。

同じバッハのしかも同じ教会の音楽なのにです。

私は最近アンサンブル曲は「お花畑」あるいは「人のすむ空間」(ミクロコスモス)の音楽、 一方オルガンソロの曲は「森」あるいは「人の住まない未知の空間」(マクロコスモス)の音楽のように感じています。

私の住んでいる八王子からJRで西へ行くと高尾山になり、その先はしばらく鬱蒼とした森林が続きます。

その間に人家はありません。

やがて相模湖に近づくと人家が見え始め、相模湖駅の周りは都会となっています。

私は山歩きが好きで、毎月一度このあたりの山を歩いていますが、この都会と山(森林)の違いは、アンサンブル曲とオルガンソロの違いと似ていると思います。

森のような印象は、特にドイツの作曲家、中でもバッハの作品に強く感じます。

最近読んだ本〔魔女とカルトのドイツ史:浜本隆著:講談社現代新書〕によると、「ドイツ人〔ゲルマン〕はかつて森に住む民族であり、オーク信仰が根強くあり、樹木や樹木霊に敬虔な祈りを捧げるアミニズム信仰を持っていた」ようです。

「ドイツの地域がキリスト教化されていく過程で、これらのアミニズムは表面的には淘汰されましたが、心の深層では命脈を保っている」そうです。

その具体例として、「ドイツには、樹木の葉をまとった人間像(グリーンマン)が装飾として刻まれた教会があり、特に北方と南方のぶつかる地方、バンベルク、マールブルク、シュトラースブルク等に多い」そうです。

私は直感的に、ドイツのオルガン曲の複雑な性格は「森」と関係していると思いました。

又山を歩いている時にふと思ったことですが、ドイツ人にとって、オルガンの林立するパイプ群は、ひょっとして森そのものをイメージしているのでは無いでしょうか。

これらは直感で証明は出来ませんが、緑に囲まれた日本の風土で育った私達は、森を大切にする心を、ドイツ人と同じように持っており、それは共有できる感覚だと思います。

八王子の奥の緑深い、夕やけ小やけふれあいの里で、昨年バッハのドリア調トッカータとフーガを演奏したのですが、その時トッカータは「平原に吹く風」、フーガは「森」をイメージしたら、周りの景色と見事にマッチしました。

バッハやベートーベン、ブラームスの音楽には、たとえ激しい曲でも、何かほっとするような安心感があります。

それは森に抱かれている感覚なのかもしれません。

考えてみれば、人間も含めて生物は(海や川に住む生き物も含めて)、すべて森に包まれて生きているのです。

森は私たちを越えた大きな存在で、澄んだ空気、ミネラルを含んだ水等、私たちが生きていく為の大切な物を提供してくれるだけでなく、土砂崩れ、水害、風の害等、多くの災害からも我々を守ってくれる存在です。

生物は森なくしては生きていけないのです。

2005年の愛知万博のテーマも森でした。

前にメッセージ(J)で、バッハのオルガン曲は人の心をとらえる音楽と言うよりは、人の心が住める音楽であると言いました。

人は森そのものの中に住むのは難しいですが、心は森に住むことを欲しています。

森を大切にする最近の動きと呼応して、オルガン曲の中に森のイメージを重ね会わせるることは、面白い試みかも知れません。

 

 

       メッセージ(L)

    日本の美はオルガンによって普遍化される

      (パイプオルガンコンサートNo.44のプログラムノートより)

オルガンは不器用な楽器です。しかし大変誠実な楽器です。

鍵盤を押さえている間は、いつまでも鳴り続けます。

ピアノのように音が減衰することもなく、同じ幅で鳴り続けるのです。

そうした特性を持つオルガンは、明確で断定的な表現をするのにふさわしい楽器と言われてきました。

オルガンの音そのものに個人的な感情や、細かいニュアンスを期待しても良い成果は得られません。

しかしリズム、ハーモニー、対位法(旋律の絡み合い)、音色の選択などを組み合わせて、個人的な感情や細かいニュアンスを内包する音楽を創造することは可能です。

ストレートに表現できないことに、はがゆさを感じるかもしれませんが、対象を自分の中で見つめ直し、整理して表現することは、より客観的、普遍的表現に近づく方法でもあります。

バッハの音楽は、こうしたオルガンにおける創作特性を前提に作曲されています。

バッハの前奏曲(トッカータ、幻想曲)とフーガは、人の心を表現する曲というよりは、人の心が住める大きな建築物です。

他方コラール作品では、人の心が深い理解と共感をもって表現されています。

1981年より開始した私の作曲活動も、上記の創作特性の上に乗っています。

日本にはヨーロッパには無い、風土に根ざした独特の情感や、細かいニュアンスを取り入れた文化があります。不器用なオルガンでそれを直接表現するのは、確かに容易な事では有りません。

しかしそうであればこそ、オルガン音楽における未開発な部分は、潤沢にあると言えるでしょう。

邦楽器や奄美島唄との共演などの成果も、オルガン音楽の創作に力強い後押しとなっています。

日本の美をオルガンで表現し、それを深め、発展させることは、新しいオルガン音楽の誕生となり、日本人の感性を普遍的次元で語る事になるのです。

 

 

メッセージ(K)

芸術家がつくる音楽、職人がつくる音楽、(2005)

 

音楽史を見るとモーツアルト以前の作曲家はほとんど職人的な音楽家でした。

作曲家が芸術家になったのは、ベートーベン以降と言われています。

では芸術家の作品と職人的な作品は、どこが違うのでしょうか。

芸術作品と呼ばれる作品は、売れるとか売れないにかかわらず、芸術家の魂の叫び、あるいは真の美を追求した作品であり、この世に1つしか無い、かけがえの無い物というイメージがあります。

一方職人が作る作品は、売れることを目的に大量生産出来る商業的作品であり、誰にでも手に入る物というイメージがあります。

その違いは、やがて商業的作品よりも芸術的作品のほうが貴重で優れているという通説を作り上げていきました。

もっとも現在ではこの通説はだいぶ衰え、人々は芸術作品も商業的作品もあまり区別無く鑑賞しているようです。

しかしクラシック音楽のファンの中には、商業的な作品に嫌悪感を持っている人が少なからずいます。

モーツァルト以前の作曲家達にとって形式は共有するもので、皆同じ土俵の上で作曲していました。

トッカータ、幻想曲、前奏曲、コラール前奏曲、フーガ、組曲、合奏協奏曲など多くの作曲家が取り上げています。

しかも作曲家達はみな自分の型を持ち、その型にそって生涯作曲し続けたのです。

例えばA.ヴィヴァルディは多くの合奏協奏曲を残しましたが、ほとんどの曲が「速いーゆっくりー速い」の3楽章からなり、トゥティとソロが交代するリトルネッロで出来ています。

また彼特有のハーモニー進行があり、ちょっと聴いただけでも、「ああこの曲はヴィヴァルディだ」とわかります。

それはヘンデルでもバッハでも同じ傾向にあります。

バッハのフーガ,北ドイツオルガン学派の5部分トッカータ、パッヘルベルのコラール・フーガ、フローベルガーの組曲、スウェーリンクのファンタジア、D.スカルラッティのソナタ、モーツァルト特有の曲調など、ほとんど全て彼ら特有のパターンがあります。 

1曲1曲を他の曲とは違った独自の曲に仕上げようとする作曲態度はベートーベンから始まりました。

以後19世紀以降の作曲家達は、この道を歩むことになります。

しかし一方でベートーベンはソナタ形式にはこだわっていました。

ソナタ形式は言ってみれば形式を重んじる時代の最後の砦だったのかもしれません。

ベートーベンに従った19世紀以降の作曲家たちは、やがてそのソナタ形式をも捨てていくことになります。

それは形式化された物は独創性に欠けるという考えによるのです。

1曲1曲を他の曲とは違った独自の曲に仕上げようとする為には、パターン化したものを放棄しなければなりません。

何々ソナタといってもソナタ形式を全く持たない楽章で出来ている曲も作られました。

形式に取って代わったものは、文学における起承転結の展開です。

交響詩、ノベレッテ(短編小説)、バラード(小叙事詩)、アルバム・リーフ(小品集)などのタイトルにもその事があらわれています。

そこでは曲の完成度の高さよりも起承転結が生み出すドラマチックな興奮のほうが優先されます。

そうした音楽は19世紀を通じて,主にドイツで発展(ドイツロマン派)しました。

 

20世紀初めのドビュッシーによる改革は、このドイツロマン派に対する反発が根底にあります。

彼の音楽を「印象派の音楽」と言うとき、文学的なドイツロマン派に対して、絵画的な印象派を打ち出すことによって対立軸を明確にしようとする意図が感じられます。

絵画的な音楽においては、ドラマチックな展開よりも、構成の確かさと高い完成度が求められます。

かつて形式の王国であった17世紀からモーツァルトまでの時代の音楽も、構成の確かさと高い完成度が重視される音楽、つまり絵画的な音楽でした。

20世紀中頃から始まったバロックブームも、絵画的な音楽を好む時代の流れに乗ったものと言えるでしょう。

 

バッハは彼の全作品のうち3分の2は、他人のテーマを使っているそうです。

彼はそのテーマを使い対位法を駆使して、原作者が思いもつかないような堅固な構成による、完成度の高い作品群を作りあげました。

バッハの独創性は、新しい音楽を生み出すよりも、対位法音楽の完成にむかって発揮されたのです。

それは芸術家の仕事というよりは、職人の仕事です。

職人の作曲家達はバッハ(1080曲)をはじめ、みな驚くべき数の作品を残しています。

もっとも彼らの作品の全てが傑作であるというわけではありません。

スウェーリンク、パッヘルベル、ブクステフーデ、ヴィヴァルディ、ヘンデル、など数百にのぼる作品がありますが、良く演奏されるのは、その代表作である10数曲程度です。

ポピュラー音楽の世界で、1つのヒット曲を生み出す背景には、200曲くらい没になる作品があるといわれていますが、それと似ていると思います。

作曲家が何度も同じような作曲を続けていくうちに、ある形式とテーマをめぐって対位法,ハーモニーなどの使用に熟達し、彼の中で音楽が熟成されていきます。

その状態で,作曲家の創作意欲が最高潮に達したときにうまれた作品が代表作なのです。

つまりおびただしい時間の反復と創意と労力が必要であり、1回の作曲だけで代表作がうまれるわけではないのです。

17世紀からモーツァルトまでの音楽は、職人的な作曲家達の共同作業により、絶えざる反復を繰り返しながら、至高の高みに築き上げられていきました。

バッハは前の時代の作曲家達の遺産の上に乗っており、モーツァルトもバッハの息子達やハイドンの遺産の上に乗っていました。

ベートーベンは更にその上に乗り、至高の高みからグライダーのように飛びたったのです。

19世紀のロマン派の作曲家達が形式を廃棄しても創作をし続けることが出来たのは、形式を重視した時代の作曲家達が築いた、非常に豊かな遺産の上に乗っていられたからです。

それを食いつぶしてしまった現代では、再び構成と形式、対位法やハーモニーを見直し、時代にあった新しい形式を模索し、その形式を完成度の高い作品に仕上げて行く職人的な営みが必要だと思うのです。

ホームページのタイトル「オルガン音楽工房サカイ」はそうした想いから生まれました。

 

 

  

                 メッセージ(J)

        心を捉える音楽、心を開放する音楽、心が住める音楽

音楽といえば「心を捉える」のが当たり前だと思う人が多いと思いますが、「心を捉える」ということは、一方で「心を束縛する」ということでもあります。

私も若い頃は「心を捉える音楽」ばかり追い求めていました。

同じバッハの曲でもトッカータとフーガ ニ短調のような演奏効果の高い曲が好きでした。(今でも好きですけれど)

しかしこうした印象の強い曲は、夜中に頭の中でしつこく鳴っていて眠れないこともありました。そうしたとき、全く印象の違う曲を意識的に思いだし、その曲を心の中で歌うことによって、ようやくその束縛から逃れて、眠れたということもよくありました。

概して19世紀ロマン派の作品は、「心を捉える」要素が強いと思います。

それはメロディが主役で、伴奏という従者を従えているから聴き手はすぐメロディに注意が向いてしまうからです。

とくにポピュラー性の高い、メロディの美しい曲はそうです。

私もそうした曲は好きなのですが、何曲も続くと逃げ出したくなります。

 

ショパンの「別れの曲」で考えて見ましょう。

この曲ではメロディの美しい(A),半音階を交えた激しい(B)再びメロディの美しい(A)の3部形式です。

この曲を聴くのが好きな人は(A)部分だけしっかり聴いて、(B)の部分は聞き流している人も少なくないのではないでしょうか。

でもそれでいいのです。このわけの解からない(B)によって「心が開放されている」のですから。

しかし(B)の部分も意識的に聴かざるをえない演奏者はどうでしょうか、(B)の部分も意識的に認識してしまった演奏者にとってはそれさえも「心を捉える音楽」を通りこして「心を束縛する音楽」になってしまっているのです。

更に、そうした曲を作曲する人はどうでしょうか、彼にとってはさらに破壊的な音組織でなければ開放されないでしょう。

そうした循環の中で20世紀半ばの前衛音楽(アバンギャルド)が生まれたのです。

聴衆と演奏者、さらに作曲家に分化したヨーロッパ音楽では、曲に対する想いの温度差は凄い差です。 

一日中音楽に何の関わりも持たずにいる人から、一日中最強度の刺激にさらされている人々まで、その差は気の遠くなるレベルです。

私自身は自作自演を行うことによって演奏家と作曲家の溝は埋めましたが、まだまだ全体の差は巨大です。

そこで私がお薦めしたいのは、「心が住める音楽」です

それはポリフォニー音楽です(何だそうか,という前に聞いて下さい。ポリフォニーをこの視点でのべるのは初めてです)

ヨーロッパでは、このポリフォニーの歴史は古く、9世紀にさかのぼります

つまり単旋律のグレゴリオ聖歌や民謡に対して初めて別の旋律をつけたのが、ポリフォニーの歴史の始まりなのです。

そこではヨーロッパ音楽の最も原始的な姿がみられます。最初期の協和音程は1,4,5,8、度の音程といわれていますが、後には3度も6度も加わりました。(逆に4度は不協和音程になりました)

要するに主なるメロディに対してハモッタと思える別の旋律を発すればいいのです。(カラオケでこっそり試してみてください)

主なるメロディに対して別のメロディが存在すれば、それはテーマの絶対的な印象を相対化することですから,その束縛から「心を開放する」ことになります。

更に一つのメロディに対して複数のメロディが存在するということは、そこに複数の異なった心が存在しているということでもあります。その時その音楽全体は複数の「心の住居」になっているのです。

「心が住める」音楽は「心を捉える音楽」のように何かを訴えかける音楽ではありません。

「心が住める」音楽は「心の住居」です。そこに足を踏みいれ、住み心地を味わってみて下さい。

そこにはアマチュアからプロの音楽家まで憩える音の空間があります。

フーガはその住み心地をより良く追求した「心の住居」なのです。

バッハの前奏曲とフーガ ハ長調BWV547はそうした視点で演奏すると、素晴らしい世界」が開けます。

そうした視点でこの曲を聴いてみて下さい。

 

 

            

                メッセージ(I)

       最近出会った面白い本(日本文化モダン・ラプソディ)

 

1981年に自作自演を開始した頃から、私は機会あるごとに、次のように述べてきました。 

     メッセージ(A)

私達はヨーロッパの作品に頼りきらずに、それらから学びつつも、自分達の音楽を持たなくてはならない状況にきていると思います。

     メッセージ(B)

第二次世界大戦以前の日本の作曲家、たとえば滝廉太郎、山田耕筰達もH.シュッツと同様、ドイツに学びそれを土台として当時の日本の音楽を生み出しました。

しかし第二次大戦後の日本のクラシック音楽家のほとんどは、自分があたかもヨーロッパ人であるかのように、ヨーロッパ人と同じことをやろうとしています。

             (中略)

私達の音楽における自己実現の為には、H.シュッツや山田耕筰達のように、外国で学んだ優れた技法を生かし、自国の身近な素材を発展させる可能性を追求するべきなのです。

この考えは今でも変わっていませんが、逆に何故私以外の人は、私の様に発想しないのか不思議でした。

今回、渡辺裕著:日本文化モダン・ラプソディを読んで、はじめてその疑問が解けました。

この本によれば、私が上記で述べているような「外国の優れた技法を取り入れ、自国の身近な素材を発展させ、新しい音楽をつくる」という考え方は、第2次大戦以前では、むしろ多数派の考え方だったようです。(私は戦前のシーラカンスか?でも戦後生まれです)

筝の名手であった宮城道雄は伝統的な邦楽に反旗を翻し、邦楽の「近代化」の先頭に立った人物で、十七絃、八十絃、短琴など,西洋楽器にヒントを得て、古来の琴に新たな工夫をほどこした新楽器を次々と発表し、なんと八十絃でバッハのプレリュードを演奏したそうです。

彼の作品には西洋音楽の形式や技法を取り入れて、カノンの技法によって琴と尺八がかけあいを演じる「秋の調べ」や、西洋音楽の和声をベースにした「新暁」のような作品があるようです。

しかしそれらは,その後の時代の受容のなかで、洋楽色の強い作品のほとんどは無視ないし軽視され、上記の改良楽器も、別の経緯で生き残った十七絃以外はほとんど忘れられてしまったようです。

そこには何があったのでしょうか。

この本では戦前の考え方として田辺尚雄氏の次のような主張を紹介しています。

「日本は古くから,インドや中国、朝鮮の様々な文化を積極的に取り入れ、しかもそのことごとくが元の国でのものよりもはるかにすぐれたものに仕立て上げられている類い希なる文化をもっている。

琴は中国では単なる合奏用の楽器であったが、日本で独奏楽器として開花した。

三味線も日本に入って撥を使うようになることによって、打楽器としての性格をあわせもつようになり、表現の幅を増した。」

「そういう中で西洋楽器もやがて西洋よりもすぐれた用法をひらいてゆくことになるだろう。」

「日本は東洋の中でもきわめて発達した特殊な文化を形作っているのであり、東洋において指導的な役割を果たすことによって、西洋から開放された独自の文化圏の旗手にならなければならない。」

渡辺氏は、田辺氏の主張は同時代の民俗学者西村真次の議論のロジックとほとんど重なっており、大東亜共栄圏思想と深く結びついていたことを指摘しています。

しかし第2次大戦の敗北により、渡辺氏は、

「戦前の日本文化を支えてきたパラダイム自体が瓦解してしまい、われわれは世界の中の日本の位置、その中での『日本文化』のアイデンティティ、さらにそこでの自らの音楽活動の意味づけといったことを、すべてゼロからやり直さなければならなくなった。」

「大東亜共栄圏の盟主という位置を捨て,韓国や中国、東南アジアの支配から撤退したとき、

必然的に日本は『西洋先進国』の一角を占めるという道を選択することになったが、そのことは同時に『日本音楽』や『日本文化』に向けるわれわれのまなざしのあり方も根本的に変化させることになった。」

その結果日本人は、

「先進国である西洋人の日本文化に対する視線を内面化してしまった」

「日本人自体が、西洋人の好むような『日本文化』像を積極的に提示し、そういう『日本文化』像をむしろ強化する方向(純粋な日本文化志向)で振舞うようになり、今や日本人自身がそういうものをごく自然に『日本的』と感じるような感性を身に帯びてしまっているのである。」

一方西洋音楽に対しては、

「西洋音楽と日本のものを結びつけて新しいものを作るのではなく『直輸入』的な『純粋な西洋文化』への志向が強まった」と述べています。

「純粋な日本文化」を求めて中途半端な西洋化を阻止しようとする「国粋主義」と「純粋な西洋文化」を求めて日本的な要素の混入を防ごうとする「西洋かぶれ」の二極に分裂してゆくことになるのですが、一見したところ正反対の方向性をもっているこの両者の背後には、「純粋な」という共通した観念があり、両者の文化にたいする態度は、「同じことの裏返しにすぎない」と渡辺氏は言っています。(ただし西洋音楽の本場での発展は受け入れたようです)

なるほど、そう言われてみれば、現在の私の活動は邦楽の世界からも、また洋楽の世界からも受け入れがたい、難しい立場だと思いました。

上記の田辺尚雄等の戦前の主張に対し渡辺氏は

「戦争協力」を批判することは容易であるし、批判すべき問題を含んでいることも確かである。しかし(中略)基層にある構造的な問題に目を向けたとき、ほかならぬわれわれ自身が多くの問題を今なお未解決のまま抱え込んでいることに、そしてまた他方で、「過ち」として捨て去ってしまった部分にも今なお新たな視点で見直すべき事柄が数多く含まれていることに、気づくのではないだろうか。」と言っています。

私の「外国の優れた技法を取り入れ、自国の身近な素材を発展させ、新しい音楽をつくる」という考え方の中には、自分の音楽を出来るだけ発展させたい、という願望はありますが、ヨーロッパよりも良い物を作らなければならないとか、新しい技術で世界の旗手になろう等、他者との競争を考えていません。

私は「音楽は表現するものであり、競うものではない。」と常々思っています。

自分の表現したい事を追及していくにつれて、自ずと湧き出てくる問題と向き合うことが大切だと考えています。

それにしても私は何故「純粋な」という枠組みからはずれてしまったのか自分でも不思議です。

こういう本が書かれたということは、私が長い間疑問に思っていることに目を向ける人々が出始めた証しかもしれないと思っています。

それだけに現在の私の方向を大切にしていこうと思います。

 

この本では宮城道雄の「春の海」にまつわるエピソード

邦楽器の改良の試み

大正から昭和初期にかけての大阪と東京の音楽観の違いからくる闘争

ウィーンでベートーベンのアパショナータに振り付けをした楳茂都睦平のエピソードなど

「へぇー、嘘」 と思わず叫ぶところが多く、実に意外で面白く読みました。

お薦めの本です。

 

 

 

 メッセージ(H

 

オルガンと電子楽器

「オルガン」という言葉は、道具という意味をもっています。

しかしいつのまにか「オルガン」は、貴重な宝物という意味をもってしまいました。

私の現在のコンサート活動のうち、約半分は電子楽器によるものです。

しかし「電子楽器によるコンサート」というだけで、実際の音を聴く以前にアレルギー反応を起こす人も少なくないようです。

よく電子楽器は代用品だが、パイプオルガンは本物だ、と言う人々がいます。

私は道具とは本来、本物も偽物もなく、ただ道具として妥当かどうかが、問題だと思うのですが、「本物か代用か」という議論になると、そこには道具としての意味よりも、もっと別の感情的な思い込みが働いているように思います。

電子楽器を弾くと、オルガンの音に対する感覚が狂うという人がいますが、そんなことは有りません。

もちろん本物のオルガンに接して、プリンチパルやフルート、オーボエやトランペット等の各音が持つ、独特の鳴り方を意識してとらえ、はっきり記憶し、それに対応するタッチをコントロールする技術と感覚を持つことは当然です。

しかしその感覚を身につければ、電子音の中にオルガンの音のキャラクターを見つけ、オルガン音楽の演奏にとって必要な音を引き出す事は十分可能です。

ですから、オルガンと電子楽器を交互に弾いて、その違いを認識し、感じて対応していれば、オルガンの音に対する感覚が狂うことはありません。

むしろ、オルガンと電子楽器の音の違いを意識する事によって、かえってオルガンの音のイメージが明確になると思います。

本物のオルガンだけを弾いている人の中には、一つのイメージしかないため、オルガンに任せきりで、音に対する意識的なイメージが弱く、オルガンの個々の音色に対して,タッチの実際の対応が鈍く、本物のオルガンなのに、無機的で性格のはっきりしない音をばらまく、といったケースも大変多く見られます。

私は電子楽器によるオルガンコンサートを積極的に行ってきていますが、昔と違って、楽器の発達のおかげで、かなり満足の行く結果が得られています。

しかし電子楽器を弾いていて、「これが実際のパイプオルガンであったら」、と思うことは勿論あります。

しかし日本では、オルガンが良く響く為の条件を満たしていない建物も多く、「これが電子楽器であったら」、という場合も少なからずあります。

最良の音響での最良のオルガンには、電子楽器はまだ確かに劣りますが、現在の最先端の物は、かなり良い楽器になっています。

 

電子楽器特有の利点をいくつか挙げたいと思います。

 

★音量の自由なコントロール

オルガンだと音色とボリュームは一体になっており、例えばフーガの演奏でよく用いられるプリンチパル系の8,4,2、Mixturの組み合わせでは、常に一定の大音量が鳴り響きます。

これを長時間聞いていると、耳が大変疲れます。かといって2‘やMixturをはぶいた音では、内声や低音部の細かい動きが、不鮮明になる場合があり、はぶく訳にはいかず、8,4,2、Mixturの大音量に耐えなければなりません。

しかし電子楽器ならば、この組み合わせのままで、疲れない範囲に音量を絞ることが出来ます。

バッハはよくクラヴィコードを弾いていたそうですが、極めて音量の小さいその楽器は(私も持っていますが、隣の部屋には絶対聞こえない程)、オルガンの大音量に疲れた耳にとって、リハビリの役目を果たしていました。

私は電子楽器で譜読みをし、最後にオルガンで仕上げると言うパターンを25年以上続けていますが、この方法は、オルガンだけを弾き続けるよりも、耳の負担がずっと少なく、より効果的であると確信しています。

私はたとえ、いつでも自由に、オルガンを弾いていられる状態にあったとしても、電子楽器が必要だと思っています。

 

場所に限定されないコンサートが可能

オルガン音楽を聴きたい人は、オルガンの或るところへ出向かなければなりません。

しかし電子楽器なら、オルガンを設置することが出来ない地域にも、こちらから出向き、オルガン音楽を演奏することが可能です。

オルガンを設置することが出来る建物は、ヨーロッパ風の天井の高い大きな空間と言うことになりますが、このような建物が可能なのは、公共のホールか、学校の講堂と言うことになります。

その地域のみに限定されたオルガン演奏だけでは、聴衆は限られてしまいます。

私は10年以上前から、邦楽器や奄美島唄とのアンサンブルを試みており、1998年から毎年夏、奄美諸島へ電子楽器をワゴン車に積んでフェリーでわたり、オルガン独奏、現地の唄者との共演、現地の作詞者の詩による歌曲(オルガンとソプラノ)の発表などをしています。

ヨーロッパ音楽の伝統と、各地の島唄の伝統のコラボレーションは面白く、これらは地元で大変歓迎されています。

また1998年には奄美大島で、2000年から2002年にかけて八王子とやはり奄美大島で、野外コンサートを行いました。

野外でのコンサートでは、いつもの閉じられた空間でのコンサートとは違い、伸々した新鮮な感動を生み出せます。

オルガンを持ってどこにでも飛び込んで行けることは、 素晴らしい喜びです。

★災害の時のピンチヒッター

近い将来東京にもM.8規模の地震がくると言われています。

関西大震災の時もそうでしたが、一時的とはいえ、多くのオルガ二ストがオルガンを手にすることが出来なくなるでしょう。

1973年、私がオルガニストを勤めていた吉祥寺カトリック教会が火事になり、オルガンが弾けなくなってしまいました。色々手を尽くした結果、週のうち2日はオルガンに接する事が出来ましたが、あとの5日間は、電子楽器による練習でした。

もし電子楽器が無かったら、私のオルガ二ストとしての生命は、そこで終わってていたかもしれません。

電子楽器は、私にとって、命の恩楽器なのです。

コンピューターもそうですが、デジタル機能に代わった電子楽器は毎年すごいスピードでバージョンアップしています。10年前とは比較にならないくらい、良い音になっています。

今後は、おそらく5年単位ぐらいで更に向上してゆくでしょう。その発達に大いに期待したいところです。

 

 

 

メッセージ(G)                      

 

        奄美島唄との10年間の歩み(2001)         

 オルガンと島唄とのアンサンブルを思い立ったのは、1991年でした。私の妻が1983年より奄美島唄を研究し始めたのにくっ付いて、私も1984年の夏から家族共々(要するに私は子守り)徳之島や奄美大島に行くようになりました。

元々南の青い海と白い砂浜、珊瑚礁やそこに住む魚や貝が大好きな私は、スノーケルをつけて海中の様子を見れるのを、毎年楽しみにしていました。

奄美の歌を直接聴く機会も多く、次第にその世界を身近に感じてきた1990年代に入ったある日、島唄を聞いていると、ひょっとしてオルガンとのアンサンブルが可能ではないか、と思い立ちました。

妻にそのことを告げると、まさかと言う顔をしましたが、意外と面白いかもしれないと言う事になりました。

もしアンサンブルをやるとしたら誰が適当かと言う話になりました。当時民謡日本一に輝いた築地俊造さんがいましたが、島の伝統を受け継ぐ唄者としては、坪山豊さんの方がいいのではないかと言う意見が多くありました。

又坪山さんは、島唄の自作自演もやっている事、「地の底から湧き出る声」と称される力強く幻想的な歌い方、しなやかな躍動感、洗練された音楽の流れに、私自身共感するものを感じ、彼と組むことにしました。

はじめて坪山さんとお会いしたのは1991年の8月、元N響のファゴット奏者の山畑馨さんに連れられて、坪山さんのお宅に伺った時でした。

最初にあわせる曲は、喜界島の悲劇を歌った「塩道長浜節」にしようとその時、決まりました。その年の10月だったと思いますが、 竹中労氏の追悼演奏会が埼玉県の川口であり、それに坪山さんも出演することを聞きました。

川口のリリアホールには、立派なパイプオルガンもあり、リハーサルの合間に、試しにあわせて見ようということになりました。リリアホールの方々も我々の意図を理解してくれて、無料で場所を提供してくれました。「塩道長浜節」を初めてオルガンと合わせた時の印象は、今でもはっきり憶えています。

島唄を包むオルガンの響きが、緑深い山々や海の波のようで、結構いい感じだと思いました。

次にあわせた曲は、坪山さん作曲の「綾蝶節」でした。島を離れて旅立って行く若者を蝶に譬え、いつかは帰ってこいよと願う親心を軽快なリズムで歌った曲で、彼の代表作の一つです。後半16分音符で、蝶の羽ばたきを表現しましたが、我ながらうまく決まったと思える出来です。

次にあわせた曲は、10月の竹中労氏の追悼演奏会で、坪山さんが歌った「いきょうれ節」でした、死者の弔いの歌であるこの曲は、オルガンとあわせると、完全にレクイエムの感じになり、コンサートでは最も評判の高い曲となりました。

次にいままで誰もあわせた事の無い、究極の島唄との共演をしようということで、「嘉徳なべ加那節」に挑戦することになりました。

この曲は非常にスケールの大きなメロディラインを持ち、しかも躍動感もあり、旋律の動きが複雑で、今までの曲の3倍くらいアレンジに時間がかかりました。

その結果力作と言うにふさわしい曲ができましたが、この曲の評判は、複雑なアンサンブルが面白いという人と、やりすぎだという意見にわかれてしまいました。

私としては原曲の持つキャラクターにあわせた結果なので、これでいいと思うし、坪山さんも「乗って歌える」と言って気にいっているようです。しかし最終的な評価はまだ決まっていません。

島唄という、既に存在しているメロディに対して、オルガンでいかにアンサンブルを試みるかを考えたとき、私の頭に浮かんだのは、ヨーロッパにおいて17〜18世紀に盛んだった通奏低音の技法と、多声音楽の作曲法(対位法)です。島唄のメロディに対して、それと調和するバスの旋律を創作して重ね、その間をハーモニーで整え、更にオブリガートの旋律を一声加えると、極めて自然なサウンドが生まれました。

そうこうしているうちに、やがて曲数も整い、公演できる状態となり、当時多くの新しい試みを推進していて、パイプオルガンの設置にさいしては、私も委員の一人でもあった武蔵野文化事業団に話を持ちかけました。

結果、武蔵野文化事業団と奄美文化振興協会との共催事業となり、1992年10月25日 武蔵野市民文化会館において、=ふちゅりよ 南ぬ風=(吹き送れ 南風よ)のコンサートが実現しました。

結果は新しい試みに対する戸惑いの声も有りましたが、多くは好評を持って迎えられました。

その翌年1993年7月2日には府中の森芸術劇場で、島唄の前に幻想曲を加えるという新しい企画も加えて再演が、1995年9月10日には奄美文化センターで里帰りコンサートが行われ、いずれも好評でした。

1998年からパイプオルガンの音をデジタル・コンピューターに記憶した新型オルガンを、私自身軽ワゴンに積んでフェリーで奄美へ渡り、各地で坪山さんと毎年4、5回のコンサートを行っています。

1999年には徳之島で徳島博敏さんと、2000年には喜界島の安田宝英さんと、2001年には沖エラブ島の川畑先民さんともアンサンブルを行い、輪を広げています。

2002年には奄美島唄とパイプオルガンの出会い10周年記念コンサートが、坪山さんを招き、再び武蔵野市民文化会館で行われる予定です。

このコンサートでは、坪山さんの弟子で、若手のホープである貴島康男君も登場し、奄美の唄文化が受け継がれていることを証明してくれます。

 

 

 

                  メッセージ(F)

  

              変拍子の面白さについて(2001)

変拍子の音楽は、今まであまり例がありません。ひょっとして私も、人工的な不自然な世界に足を踏み入れているのではないかという不安もありました。しかし古いグレゴリオ聖歌も2と3のリズムのアトランダムな組合せですし、日本の追分のフリーリズムも変拍子の感覚に近く、むしろ4分の3や、4分の4のように、固定された拍子を持続する方が、人工的なのではないかと思います。

5拍子と7拍子について、最近面白い発見をしました。

日本語は2と3を最小単位とするシラブルの拍子で構成されています。

例えば

  ぼくは いま オルガンを 弾いている  という文章は

   3   2  2+3   3 +2   という拍子で出来ています。

 このように2と3をうまく織り交ぜて日本語の文章はできています。しかしたまに、2拍子だけだったり、3拍子だけの文章も出来てしまいます。たとえば3拍子だけの例では

 ぼくは きのう きみと ここで おちゃを のんだ

  3   3   3    3   3    3

これだと 拍子が単調で面白くありません。

 これに対して、俳句や和歌の5と7は常に2と3の拍子を含むことになり、必然的に単調を排除し、変化を生み出すリズム構成を持っています。は、2+3、または3+2、は2+2+3または2+3+2または3+2+2で、俳句と和歌は、すべてこの組合せのどれかに属します。

例えば、

さみだれを あつめてはやし もがみがわ (2+3、 2+2+3、 3+2)

なつくさや いわにしみいる せみのこえ  (2+3、 3+2+2、 3+2)

われときて あそべやおやの ないすずめ  (3+2、 2+2+3、 2+3)

こちふかば おもいおこせよ うめのはな  (2+3、 3+2+2、 3+2)

あるじなしとて はるなわすれそ  (3+2+2、 3+2+2)

 

つまり定型の詩も、散文の文章も、すべて2と3の組み合わせなのです。だとすれば、面白いと感じられる、変化に富んだリズムパターンを持つテーマを創作し、それを展開する事は、2拍子と3拍子、4拍子(6拍子は2拍子に、9拍子は3拍子に含まれる)に固定された曲よりも、多彩な変化の可能性が生まれるのではないでしょうか。

でも何故私は、固定された拍子よりも、変拍子に惹かれるようになったかを考えると、そこに行き着くには、思いもかけない経験がありました。

私は1998年から50 歳にして初めて免許をとり、自動車運転を開始しました。

運転していて感じることは、渋滞しているのは勿論苦痛ですが、何の障害もなく、延々と走り続けなければならない(固定された拍子)、高速道路の単調さも苦痛です。

むしろ一般道路で、信号待ちがあったり、横から入ってくる車に前を譲ったりしながら(変拍子の混合)、それ等がうまくいき、スムースに進んでいる時のほうが、大変面白く感じられ、眠くもなりません。

つまり、イレギュラーを前提にしたスムースな流れ、それに新鮮さを感じ、音楽に取り入れてみてはどうかと考えたのです。

単なる変拍子なら、すでに数多く作曲されています。しかし多声部のアンサンブルであるフーガは、私の作品以外では、お目にかかったことがありません。。

私は1996年に、クラリネットの名手A.プリンツ氏と共演する為に、「クラリネットとオルガンの為のディアローグOp.44」を作曲しましたが、この時初めて変拍子のフーガを書きました。この時は、ヴィブラートの無いクラリネットとオルガンのアンサンブルでは、この拍子が面白いのではないか、という発想のもとに、実験的な気持ちだったのです。

しかし1999年にイントロダクションとフーガ ニ長調Op.50を作曲した時には、もはや実験的な半信半疑ではなく、変拍子の面白さと、その展開の可能性を、はっきりと意識し、自信をもって押し進めようと思っていました。

色々な人々と、様々な関係において交わらなければならない現代において、変拍子のフーガは、新鮮な面白さをもった、リズムの新しい流れを生み出していけると、感じています。

 

 

          メッセージ E     

新世紀が始まり、新しい音楽について考えて見ましょう  (2001)

 19世紀から20世紀にかけて、次第に複雑になっていったハーモニーの変化。それはやがてアバンギャルドな無調音楽にたどりつくわけですが、その音楽は、1970年代に最盛期を迎えましたが、20世紀末には下火になってしまいました。

 想えばアバンギャルドな音楽は、千年の単位(ミレニアム)と重なる、最も大きな世紀末的混乱の感情と結びついた、言わば一過性の芸術だったのかもしれません。

新しいミレニアムでは、再び音楽の3要素である、旋律、リズム、ハーモニーを基本にした音楽が展開されることでしょう。しかしそれは昔に帰ることを意味するのではなく、やはり新しい改革が必要です。

アバンギャルドの音楽家たちも改革の作業を続けた結果、あのスタイルに行き着いたわけですが、私は彼等のやり方に初めから疑問を持っていました。

彼等は1970年頃こう言っていました「バッハは同時代人からは理解されず、ずっと後の時代になって理解された。つまり高度な芸術をやっていれば、いつかはきっと理解されるはずである」と。更に、「今は耳慣れなくても、慣れればバッハやシューベルトと同じように、自然に聞こえるようになる」と。

当時フルトベングラーの演奏に心酔していた私は、彼が伝統的な音楽と無調音楽に対して述べている次の言葉に心を留めていました。

「昨日まで生々と生命を保っていた芸術が、今日いきなり死滅するはずはなく、また昨日まで生々とした活動を続けて来もしなかった芸術が、いきなり今日芸術の機能を完成する筈もない。」(1954 : すべて偉大なものは単純である)

バッハの対位法音楽は、確かに高度なものですが、彼が用いた音楽上の素材はコラールであったり、民謡であったり、誰かのテーマであったり、すべて人の心に自然に存在しているものでした。

ですから複雑な展開で、初めは理解されにくくても、くり返し聞いているうちに、聴き手の心の中で、音楽が生育し成長し、やがてしっかりと根を張っていったのです。

それに対して、アバンギャルドの音楽家達の素材は、かれらが作り上げた理論に基づく、全く人工的なもので、元来人間の心には存在しない音の繋がりなのです。

あれから30年たった今、それらは人々の心のなかで生育しつづけているとは思えません。

また「慣れればバッハやシューベルトと同じように、自然に聞こえる」ことにもなっていません。

しかしそうは言っても、私はアバンギャルドな芸術が、今後全く存在意義を失うかと言うと、そうも思っていません。我々のまわりには、数多くの人工的な物も存在しているからです。

私はアバンギャルドの音楽にずっと浸っていることにも耐えられませんが、それ以上にクラシックをはじめ、自然的な音楽の決まりきったパターンが、延々と続くのには耐えられません。それらは何か偽善的な感じがしてしまうのです。

同時代の作曲家では、A.シュニトケに注目しています。彼の音楽は、調性と無調の間を行き来するものですが、そこでは自然的な音と、人工的な音が共生しており、新しい可能性を内包しているように思います。

私の作曲したものは、気付いてみると多くの作品において、後半に無調的なブラックホールがあり、それから脱出するようなパターンが見られます。これは1985年に作曲した、瞑想的即興曲「流離」から既にそうですが、それに気がついたのは、つい最近のことです。

調性と無調の問題だけでなく、20世紀後半のバロックブームの時代に、古楽器の分野で活躍した人々の残した成果も大事だと思います。

特に、様々な調律の可能性、不均等なイネガルのリズム、長い音の真中を膨らませるメッサディ・ボーチェ等、新しい音楽にとっても大変面白い、有効な技術だと思います。

とにかく新しい時代では、一つの方向だけではなく、今まで存在した、あらゆる時代、あらゆる分野の音楽が対等な市民権を得るべきです。

ですから12世紀のオルガヌムとジャズが結びついてもいいし、ロックとパレストリーナのモテットが合体してもいいし、反対に、ある特定の分野の音楽のみにこだわり続けても、それは自由です。

私としては今、変拍子のリズムと、対位法音楽を結びつける事にこだわっています。

19世紀から20世紀にかけて、次第に複雑になっていったハーモニーは、今日充分すぎるほどの発達をみせていますが。それに対して拍子やリズムは昔からあまり変っていません。

私はこの分野に着目し、1999年から8分の5拍子や8分の7拍子を含む、いわゆる変拍子の作品を作曲(Op.50以降)しています。とりわけそれをフーガで展開しますと、対位法の絡みの効果とあいまって、目が眩むような躍動感と、活気に満ちた開放感が生まれます。

ただ難は、こうしたリズムで演奏するように私達の体はまだ慣れていないので、演奏に際して、心と体の動きのバランスが大変難しいことです。

 もしかしたら、アバンギャルドの音楽と同じように、このリズムも人工的な物ではないかと言う疑問がおきましたが、2拍と3拍の組合せによってうまれる変拍子は、我々の日常会話の中で頻繁に使われており、自然に存在する物です。

日常会話のリズムで多声のフーガを展開すれば、それが定型のリズムで作られた今までのフーガより活気がでるのは、ある意味で当然とも言えるでしょう。

この変拍子の曲を演奏する面白さを伝えるために、53歳の体に鞭打って弾き続けていますが、新しい事を取り入れるのが好きな、若い世代の演奏家なら、私より簡単にマスターできると思いますので、若い人々のチャレンジに期待しています。

コンサートでは、この種の曲は必ず入れてありますので、是非聞いて下さい」。

      

                メッセージ(D)

    バッハ没後250年を記念してバロック音楽について想う(2000)

 1960年代に始まったバロックブームに於いて、人々が最も注目した作曲家はJ.S.バッハでした。そのバッハが亡くなって、西暦2000年はちょうど250年にあたります。多くのコンサートでバッハの作品がとりあげられることでしょう。この機会に、ここ40年間にわたって私達が熱中してきたバロック音楽について考えてみたいと思います。

 バロックブームがわきおこる前の音楽界は、今思うとシンフォニーやオペラ等19世紀の音楽が盛んでした。それらは大抵一時間近くか、又は数時間かかる大曲が多かったと思います。それらは響きも大きく、そして重いテンポでした。いまでもフルトヴェングラー指揮のベートーベンや、ブルックナーのシンフォニーを聞くと、当時の雰囲気が蘇ってきます。

 フルトヴェングラーの演奏自体は大変素晴らしいものですが、そのような音楽ばかりの中に、F.アーヨをコンサート・マスターにしたイ・ムジチが演奏するヴィヴァルディの「四季」が登場したとき、人々はたとえようも無い爽快感を味わったものでした。

 オルガンの世界でも、1960年代の初め頃は、A.シュヴァイツァーや M.デュプレ等に代表される、レガートを中心にした重いテンポで、しかも8’を重ねたシンフォニックなバッハ演奏が普通でした。

 そこへ1962年にH.ヴァルヒャが、細かいアーティキュレーションによる、当時としては速めの生き生きしたテンポで、しかも8’4’2’Mixturによる、すっきりとした室内楽風な演奏で、バッハの全曲演奏を世に出したのです。それはバッハ演奏における革命的な変化で、当時の人々は、初めてバッハのフーガに於ける緻密な音楽的構造を、聞き取ることが出来たのでした。

 この頃から、日本各地にオルガンが設置されはじめました。1970年に発行された原田一郎著「オルガンへの巡礼」によると、1960年以前には、日本全体でオルガンは僅か13台しかありませんでした。それが1960年代だけで、33台入り、現在では何と700台にもなっています。

 1970年代に入ると、バロック音楽に対する人々の関心は、曲の構造とか意味よりも、サウンドの方へ移り、次第に古楽器によるバロック演奏の復元へと向いました。以後この方向は変わらず、今日まで来ています。

 私も1970年代前半は、この流れに乗っていました。しかしバロック界の関心が、曲の構造や意味から次第に遊離しつつあることに、私は違和感を覚えるようになりました。当時合唱指揮もしていた私が受けたショックは、バッハのカンタータの演奏の変化でした。

 それまでK.リヒターの演奏するカンタータ第4番「キリストは死の縄目につきたもう」が大変好きだったのですが、この曲をN.アーノンクールの指揮する古楽器の演奏で聞いたとき、それは全く別の曲であるという印象をうけました。

 K.リヒターの演奏は、カンタータの歌詞の意味を深く反映させた大変ドラマチックなものでしたが、N.アーノンクールの演奏はバロックの響きに重きをおいた、サウンドファッション的な演奏で、ドラマ性はほとんど感じられませんでした。

 このことは「マタイ受難曲」でも同じで、古楽器の演奏では、あの長い曲全体がバロックのサウンドファッションになっているように感じられます。

 同様に「フーガの技法」に於いても、曲の構造を明確にすることを第一に考えたH.ヴァルヒャの演奏とバロックサウンドに目が向いているムジカ・アンティクァ・ケルンのアンサンブルでは全く印象が違います。

 バロックのサウンドを追求することを私は非難するつもりはありませんが、私がバッハに期待したものは、彼のポリフォニーの精緻な構造と、歌詞の内容をモティーフに託す技術でした。

 バッハの「フーガの技法」が何の楽器の為に書かれたか、議論された時期もありました。G.レオンハルトは、14項目(Bachの名前はB=2.A=1.C=3.H=8.で,2+1+3+8=14)の理由をあげて、チェンバロの為の曲であると結論づけています。

 しかし晩年のバッハは「フーガの技法」をはじめ、「音楽の捧げ物」など極度に抽象的な作品に向っていきました。ロ短調ミサ曲の”Credo”に於ける”Confiteor”はこの時期の作品ですが、実際の演奏効果よりも、ポリフォニーの展開と音楽の意味付けの方がまさっているように思います。

 「フーガの技法」でもNo.IからNo.VIIまでは、演奏する喜びが感じられますが、No.VIII以降は、実際の音にする意味が感じられないほど抽象的な曲が多くなってきます。特に4声の鏡のフーガはそうです。

 「フーガの技法」は何の楽器の為に書かれたか、という問いにたいして、私はこの曲は特定の楽器の為に書かれたのでは無いと考えています。バッハはこの曲において、ポリフォニー音楽の音組織をギリギリまで展開する為に極度に集中しており、何とかの楽器の為にという興味を完全に失っているのです。作曲家自身が何も指定していないことこそ、そのことを物語っていると言えましょう。

 「フーガの技法」とロ短調ミサ曲は、共に極限の作品です。しかしその極限のはるか手前に、ポリフォニーの展開と音の意味付けにおいて、人々が豊かに生きられる世界が、幅広くあるように思います。 バッハの中期くらいの様式で、我々の身近な素材を展開することを、先ず やってみようではありませんか。メッセージ(C)でのべた「ポリフォニー音楽は21世紀の日本の課題」は、このような想いから出ています。

              メッセージ (C)

         ポリフォニー音楽は21世紀の日本の課題(1999)

 私は1981年から自作自演にとりくんで、ヨーロッパのオルガン音楽の伝統と日本的情感、ファンタジーを結びつけた作品を作曲し続けてきましたが、1990年代に入ってフーガやトリオ、変奏曲などポリフォニー(対位法音楽、又は多声音楽)の作曲を始めました。日本の音楽の中に、このポリフォニーのセンスを積極的にとりこむことが大事だと考えています。

 ポリフォニーの世界では、ソプラノ、アルト、テノール、バスは独立しており、それぞれ独自の自由な動きとハーモニーの調和という二元的対立の中で、緊張をはらんだ動的なバランス感覚を前提として展開してゆきます。私たちが普通耳にする音楽はメロディ(主役)と伴奏(脇役)に別れています(ホモフォニー)が、ポリフォニーでは、どのパートも主役なのです。

 ヨーロッパでは、このポリフォニーの歴史は古く、9世紀から18世紀まで1000年間、モテット、シャンソン、マドリガーレ、カンツォーナ、リチェルカーレ、フーガ等に用いられ主流でした。

 一方ホモフォニーは17世紀のモンテヴェルディの時代から始まりましたが、ポリフォニーに代わって主流となったのは、18世紀後半になってからで、かなり近年の事なのです。

 しかもポリフォニーは主流の座をホモフォニーに明け渡したとはいえ、今日まで全くすたれてしまったわけではありません。むしろその感覚はクラシック音楽の立体的な動きの中に生きており、音楽を支える骨組みや内臓のような役割を果たしています。しかし悲しいかな、日本にはこのポリフォニーの伝統が全くありません。

 明治時代の19世紀に、もはやホモフォニーが主流となっているヨーロッパ音楽を受け入れた日本では、このポリフォニーに対する伝統が無いために、その理解が著しく欠けています。

 バッハの平均律クラヴィーア曲集を通してフーガには一応接していますが、ピアノ演奏上の処理では、「テーマを強く、対位旋律を控えめに」というのが一般的です。

 しかし本来ポリフォニー音楽では、この両者は対等であり、その張り合う緊迫感がその醍醐味なのです。ピアノにおけるフーガの処理はメロディーと伴奏というホモフォニーへの翻訳的な解釈なのです。

 更に重要な点は、ポリフォニーは元来声楽のアンサンブルの為の形式であり、4声の曲なら4人の異なる性格の動きが必要なのです。ポリフォニー音楽を前にして、その処理のしかたを考える以前に、先ずその声楽のアンサンブルの世界(例えばジョスカン・デ・プレやパレストリーナの作品)に身を浸して、その世界に生きてみることが大事だと思います。

 1972年から1991年まで私はシュトルム合唱団の指揮者を務めて来ましたが、この合唱団は16世紀ルネッサンスから、18世紀バロックまでのポリフォニー音楽を専門に取り上げるアマチュアの団体でした。

 その時目指したのは、ポリフォニーの演奏における、テーマと対位旋律の力は対等に置き、それぞれの性格を際立たせることで、各声部の動きを浮き上がらせ、劇的な展開を作り出すことでした。

 オルガンやクラヴィーアで、フーガを孤独に演奏している時には気が付かない各声部の生々しい息使い、肉声による旋律が交わりあう暖かみのある実体感は、いまでもはっきり私の中に生きています。

 この合唱団での最後の数年間、私は指揮を止めてバスパートを受け持ち、団員の自主的なアンサンブルを促しました。この19年にわたる合唱体験は私が現在ポリフォニー音楽を演奏したり作曲する上で貴重な礎となっています。

 私が初めてフーガを書いたのは1990年に作曲した「赤とんぼ」の主題による変奏曲においてでした。日本のメロディを使ってフーガが作れるのか不安でしたが、いざ取り組んでみると思ったよりスムーズに仕上がり、ポリフォニー音楽では対位旋律の工夫次第で如何なるテーマでも処理出来るのだという自信が出来ました。

 現在私は、更に日本語によるポリフォニー音楽の可能性を追求しています。1998年、佼成文化協会からの委嘱により、初めて日本語によるフーガを作曲しました。一センテンスの中に、日本語はヨーロッパの言葉よりも字数が多すぎ、フーガのテーマに乗せにくい難問がかつてより有りましたが、その問題もこの時に解決し、大きな可能性が広がったように感じています。

 日本語によるポリフォニー音楽を作りたいので、歌詞を探しています。興味ある方のご一報をお待ちしております。

 

            メッセージ (B)

 

 日本的(我々の身近)な素材を基にオルガン作品をつくる意味の重要性について(1999)

 私は1987年より尺八や琴など邦楽器とのアンサンブルを開始し、1991年から「赤トンボ」の主題による変奏曲op. 32 を皮切りに、日本で古くから歌われている曲や民謡をテーマにした変奏曲やフーガを作曲し始め、又1992年からは奄美島唄とのアンサンブルに乗り出しました。

 1970年代の中頃、私がオルガンコンサートを始めて少したった頃、私はホールの関係者から、「もっと聴衆に分かりやすい曲を弾いてもらえないか」という注文を受けました。

 当時J,S,バッハとC,フランク専門の演奏家をめざしていたわたしは、この言葉にあまり注意を払うことなく無視して活動を続けていました。

 しかし1970年代後半からヨーロッパ音楽のみに終始している私自身、そして日本のクラシック音楽界に大きな疑問を持ち始めました。この疑問は日を追ってすごいスピードで膨らんでいきました。

 当時合唱指揮も手がけていた私は、16世紀から17世紀にドイツで活動していた作曲家H, シュッツとイタリアで活躍していたC, モンテヴェルディの関係に注目しました。

 H.シュッツはドイツからイタリアへわたり、C. モンテヴェルディに師事するのですが、彼はイタリア音楽を学びにいったのではなく、C.モンテヴェルディの技法を学びそれを土台としてドイツの音楽を打ち立てたのです。

 第二次世界大戦以前の日本の作曲家、たとえば滝廉太郎、山田耕筰達もH.シュッツと同様、ドイツに学びそれを土台として当時の日本の音楽を生み出しました。

  しかし第二次大戦後の日本のクラシック音楽家のほとんどは、自分があたかもヨーロッパ人であるかのように、ヨーロッパ人と同じことをやろうとしています。

 1970年代の私も、シュッツの時代と20世紀では国際化のレベルが違うので、日本人の私がヨーロッパ音楽を専門に演奏をしたってかまわないと思っていました。今日でも多くのクラシックの音楽家達はそう思っているのではないでしょうか。

 しかし時代は徐々にそれを否定しつつあります。

 1960年代に、ドイツのオルガニストH. ヴァルヒャに続いてフランスのオルガニストM. C. アランが、バッハの全曲録音を世に出し、オルガン界の話題を二分する時代があったことはメッセージ(A)でのべました。

 その数年後フランスのM.シャピュイやスイスのL.ロッグが同じことをやっても、もはやあまり注目を受けませんでした。

 もう時代はG.レオンハルト達の古楽器の時代となってきており、それと平行してメッセージ(A)で述べたような民族主義的な流れが加わって来たのです。

 1989年に崩壊したベルリンの壁は、民族主義的な流れがもはや決定的な力を持って膨らんできたことを示しており、オランダ人のT.コープマンのバッハ全曲録音の挫折も、もはや民族主義的な流れが、古楽器の流れさえも飲み込んでしまったのだと私は考えでいます。

 情報や交通が発達すれば世界は一つになると思っている人が多いかと思いますが、逆の視点もあります。

 相手との距離が適当であればうまくいっている関係が、情報や交通が発達することによって、その距離が圧迫され、相手との関係がうまく作れず、紛争が起きるとも言えるのです。

 情報と交通の発達は現在の私達にとって、「相手との距離」の取り方においてバランスを崩しており、これが様々な紛争の火種を作っているのではないでしょうか。

 音楽の解釈においても、例えばドイツと日本の間に距離があるときは、日本人の解釈によるバッハの音楽が存在出来る可能性がありましたが、その距離が縮まり、本場のドイツ人による解釈が日本で日常的に演奏される現在では、日本人による解釈が正統なものとして受け入れられる可能性はほとんどありません。

 その状況は他の作曲家でも皆同じであり、日本人が主体的に表現を打ち出せる場は、すでに失われているのです。私達オルガ二ストの、音楽における自己実現という点から考えれば、日本のオルガ二スト達には、既に非常に大きなストレスが溜まっていると思われます。

 私は日本のオルガン界は方向転換するべき、ぎりぎりの所に来ていると思います。

 私達の音楽における自己実現の為には、H.シュッツや山田耕筰達のように、外国で学んだ優れた技法を生かし、自国の身近な素材を発展させる可能性を追求するべきなのです。

 そうした成果を実らせて自己実現の基盤を持つことによって、初めて相手との距離が計れるのであり、しかるべき発言権を持って世界の仲間入りが出来るのです。

 21世紀の世界ではおそらく情報と交通の発達を前提にしながら、様々な試行錯誤を繰り返しつつも、各民族が、それぞれの特性を主張しながらも、相手の特性を認めつつ、動的なバランスを求めてポリフォニックな調和を作り出そうとする方向へむかうのではないかと思います。

 その為の一手段として、私達オルガ二ストはバッハが好きであるならば、単にバッハを弾くだけで終わるのではなく、バッハの作品と同じ構造を持つ作品を、自身のオリジナルのテーマか、又は聴衆も知っている身近なテーマを使って、現在のセンスと絡めて作曲することを試みるべきだと思います。

 そうして生まれた作品は、テーマのキャラクターからいっても、又現代のセンスからいっても、バッハと同じ作品に留まるはずはありません。それは聴衆と同じ立場に立った現代の曲であり、我々は、自身の解釈によってそれを自由に展開出来るのです。

 そうした作品を生み出す過程はバッハの足跡をたどることでもあり、バッハの音楽をより深く理解する事にもつながり、その新しい理解が、また次の作品を生み出す種子になるのです。

 各オルガ二スト達が、それぞれの好きな作曲家についてそれを行えば、日本のオルガン音楽のレパートリーは、数からいっても質からいっても、格段の発展を見せ、、演奏する側にも聴き手にも活気が生まれることでしょう。その成果が日本のオルガン音楽の新しい伝統となって行くと思うのです。

 かつてホール関係者が言った「もっと聴衆にわかりやすい音楽」とは、言葉どうりの意味では無いと思います。

 聴衆にわかりやすい音楽の多くは、もともとオルガン曲ではないので、そのままでは成功し発展する可能性はありません。我々の身近なテーマや音楽的素材が、オルガン曲特有の形式と結びついて、初めて我々にとって生きたオルガン曲が生まれるのです。

 「もっと聴衆にわかりやすい音楽」というのは、そのようなアイデアから生まれた作品群の中からのヒット作品ということになるでしょう。

 1999年9月現在私の作品はop.52まできていますが、そのうち自信をもってお薦め出来るのは10数曲です。それらは決して易しく、また必ずしもわかりやすい音楽ではないかもしれませんが、上記のような問題意識から生まれました。

興味のある方のご意見をお待ちしております。

 

メッセージ (A)

     クラシック音楽界に見られる民族主義的な流れを受けて(1998)

   ここ30年くらい、私はある一つの事に注目しています。それはクラシック音楽界において民族主義的な流れが強まりつつあるように見える事です。

  最初に驚いたのはショパン演奏の変化でした。私が若い頃(1960年代後半)、ショパンの名演奏家といえば、フランスのA.コルトーと、その後継者であるサンソン・フランソワでした。

 彼等の演奏するショパンは、パリの社交界の華やかな雰囲気の中で生まれた作曲家というイメージで、繊細なニュアンスを強調した、洗練されたものでした。

 ところが10年程前に、ポーランド人の演奏する荒々しい、洗練とは程遠い演奏にびっくりし、これでもショパンか?と思っていたら。何と今日では、これがショパン演奏の主流だと聞いて、尚びっくりしたものでした。
 

 次に驚いたのは、ドボルザークの交響曲「新世界より」の解釈の変化でした。

 私の若い頃この曲は、新大陸へ渡ったドボルザークが、開拓者達の逞しい精神に魅せられて作曲した曲で、第二楽章のみ祖国ボヘミヤを思いだして郷愁に浸り、第三楽章以降は、又現実にもどるという解釈でした。

 ところが最近では、この曲全体が新大陸から祖国ボヘミヤを思って書かれた、という解釈が主流のようです。ですから昔は、この曲の名演奏はアメリカのL. バーンスタインでしたが、今ではチェコのV. ノイマンとゆうことになっています。

 オルガンの世界でも1960年代に、ドイツのオルガニストH. ヴァルヒャがバッハの全曲録音レコードを世に出した時、すぐに続いてフランスのオルガニストM. C. アランが、同じく全曲録音を世に出し、オルガン界の話題を二分する時代がありました。

 この頃は、まだドイツの作曲家の曲をフランス人が全曲録音しても話題になっていたのです。

 しかし今日ではドイツ人の曲ならドイツ人の演奏家、フランスの曲ならフランス人の演奏家というように、作曲家と演奏家が同国人というパターンに急速におさまりつつあるように思います。

 1960年代から1980年代にかけて盛んであったバロック以前の古楽器による演奏も、背後に民族主義的な動きが読みとれます。

 はじめは皆バッハ演奏の再現をめざしていたのですが、やがてネーデルランド(ベルギー、オランダ)のひとびとはジョスカン・デ・プレ、J.P. スヴェーリンク、D.ブクステフーデあたりを最終の目的とし、イギリスはシェークスピアの時代であるルネッサンスのJ. ダウランド、H. パーセル、W. バード等をめざし、イタリアはG. フレスコバルディ、A. コレルリ、A. ヴィヴァルディ等を目指し、皆自国の過去の華やかなりし栄光を再現しようとしています。

 日本人は、それらをクラシック界の発展の動きとしてとらえ、留学してそれらを吸収しようとしていますが、その意義の重用性は認めるとしても、最終的には日本人が立ち入ることの出来ない世界へと至ることはまちがいありません。

 おそらくバッハやベートーベンの音楽を解釈する権威はドイツ人固有のものとなり、同様にショパンならポーランド、ドビュッシーならフランスというように固定されてゆくでしょう。

 我々は彼等がすることを、ただ模倣、選択することしか出来なくなるのです。いや、もうそうなっているような気がします。

 いままでは、世界でも有数なベートーベン弾き、モーツァルト弾き、ショパン弾きが日本からも誕生しましたが、今後は難しくなると思います。

 私達はヨーロッパの作品に頼りきらずに、それらから学びつつも、自分達の音楽を持たなくてはならない状況にきていると思います。

 

 

メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ

草模様